webの知識は普段着の知識ではないか。

各所でレポートをコピペすることについて盛り上がっているようす。
発端はARTIFACT@ハテナ系さんの大学のレポートのコピペ問題からなのかな。


レポートをコピペで作成しようともかまわないと思っている。 コピペでレポート書いて単位がもらえればいいやと思っている学生はその程度だ。 個人的にはそんななら大学に行かなければいいのにと思うがそうもいかないのだろう。 きっと。
教官がそれを疎ましく思うならコピペで解決できない、思考を必要とするレポートを課せば良い。 実際に、私が学生だったころ、生物学(専門科目だったかもしれない)のレポートで「レンコンの穴はなぜ開いているのか」というレポートを書いたことがある。 好きなことを書けという形式ではなく、固定のお題目として出題されたレポートだった。 何を書いたのか忘れたが、楽しかったことは良く覚えている。


結構深刻な問題かなと思うのは重要なレポート(卒論や研究など)でweb(DBとかではなく)を引用文献として堂々と書く人が結構多い。 これは修士課程の学生にも言えることだ。 しかし、webに掲載されているテキストは基本的に推敲されている保証がない。
書籍の価値のひとつに、多くの人間の目を通ってきていることがあげられると考えている。 これがなされていないwebのテキストには、嘘かもしれないという問題がもちろんある。 しかし、それ以上に書き手のバックグラウンドが明らかにならないという問題が深刻なのではないかと思っている。


よっぽどのことがない限り、事実を述べているテキストに関しては瑣末な間違いはあろうとも大筋では間違っていないことが多いだろう。 また、複数のサイトをチェックすればその問題は回避できることが多い。
しかし、書き手の知識背景が見えないと、その人が真実をどの角度から観測したものであるのかが見えなくなってしまう。 どこまでの知識をどのように省略して記しているのかが曖昧になってしまう。


なんでもそうだが、コミュニケーションするうえで大切なことは「共通観念」だと思う。 共通した理解をもつことで大幅にその労力を削減することができるだけでなく、一見表層的な会話を交わすだけで深い理解や示唆にとんだコミュニケーションを行うことができるわけだ。
特にある程度限定され、専門知識が必要となる分野のテキストを読む上では、書き手が想定した共通の知識が必要になることが多い。 つまり、表層的には同じようなことをいっているように見えるテキストでもそのスタンスや著者の意思が全く異なる場合がある。 つまり、安易にコピペしたのでは意味がないことが往々としてあるのだ。


それは、真実に対する事実が多く、観察されるのは必ず事実だけだということに起因している。
書籍では、著者のスタンスや思想が必ず説明されている。 真実を解き明かすためにどの事実をどのように観察したのか。 それが最も重要なことだ。 webは物事の取っ掛かりとしては非常に便利なものであるが、ある程度専門的な知識が要求される分野ではあまり実践的ではないといえそうだ。


それなのになぜ、webを使いたがるのか。
コピペできるから楽だからだけではないと思う。 webに掲載する段階で、ある程度著者が平易な表現を使うことが多いからではないだろうか。 これはわかりやすくて良いと思われがちだが、実はそうではない。 平易な表現に変換される過程で、より多くの知識が用いられる。 つまり、厳密に定義された言葉を用いなくなるために、表現から読み取れる解釈が複数できてしまうため、それを正しく読み取るための共通理念が要求されるわけだ。


こんな風に書いてきたが、webを決して否定するわけではない。 全く知らない分野の手がかりとしてざっと全貌を眺めるのにこれほど適したメディアはない。 書籍は入門書といえども著者の分野が偏っていることがあり、1冊ではフォローしにくい。 その点webでは検索結果順に斜め読みすることで多くの知見を多角的に得ることができる。


要するに使いようなのだ。 webはまだまだフォーマルなメディアだとはいいにくい。 いわば普段着のメディアなのだ。 冠婚葬祭にTシャツジーパンで行く人がいないように、TPOを考えて道具は用いる必要がある。